―第一章 天使の鏡 ―
第1話:クリスタリア
快晴の青空と少々の肌寒さを感じる中、栗色のロングヘアをした少女が全速力で歩車道を駆け抜けていた。周囲は、新築 の輸入住宅が並び、車が行き交っている。二十メートルほど先には信号が見えて、左手には昔ながらの八百屋があった。 何故、彼女がこんなに急いでいるのかというと、ある通い慣れた店に向かっているのだ。それは近所にある骨董屋で、店 名はクリスタリア。彼女の家から、徒歩十五分程度の距離にある。 自転車で行けばよかったな? でも、手で持って帰りたかったからこれで良かったよね。 彼女は、信号に引っかかり一度足を止める。肩に掛けていた淡いピンクのショルダーバッグからレースのハンカチを取り 出して、額に滲んでいた汗を拭う。すぐに信号が変わり、また彼女は全速力で駆け抜ける。どうやら、体力には自信がある ようだ。直線の道路を突っ走り、お店のすぐ傍にある二つ目の信号を超えた所で彼女は徐々にスピードを落としていく。歩 道を歩きながら、乱れた呼吸を整え、腰まであるストレートの髪やお気に入りのレースが付いたロングスカートを整えて、 西洋風の赤いレンガ造りの店の前に立つ。 「つっ……着いたわ……」 彼女は期待と興奮に満ちた眼差しで、ガラスのドアを押し開けてお馴染みの店内に足を踏み入れる。同時に、透明の天使 のチャームが周囲に優しく鳴り響く。 「いらっしゃいませ。おぉー、フルンちゃん! 待っていたよ」 彼は、優しい微笑を浮かべて彼女を歓迎する。 「マイケル叔父さん、こんにちは!」 フルンは、いつものようにレジの前へ一直線に向かい人懐っこい笑顔で中年男性を見上げる。彼こそ、このクリスタリア の店長兼オーナーであり、幼少時からフルンを愛娘の様に可愛がっている人物だ。外見の特徴は、ショートヘアでアンバー の髪、露草色の碧眼が彼の持ち味だ。優しい人相をしており、穏やかな雰囲気を纏っているせいかお客さんに慕われる事が 多く、常連客も大勢いる。店内には、主に海外の骨董品が所狭しと並んでおり、アンティーク家具がメインだ。他にも、絵 画や小さな天使のオブジェまで幅広く扱っており女性客にも人気があった。 「フルンちゃん。卒業おめでとう! 中学校の卒業式はどうじゃったかの?」 「ありがとうマイケル叔父さん! 昨日、卒業式が終わったよ。友達と離れちゃうから寂しいけど、もう大丈夫。今は春休 みで、四月からは高校生なの」 マイケルは、レジを出てフルンの前に立ち、腰まであるストレートの髪を撫でて優しく抱擁をする。これが外国で育った マイケル流の挨拶だ。フルンもマイケルの腰に腕を回して抱擁すると、嬉しそうに笑顔を浮かべて胸に顔を埋める。これで も随分と慣れたものだ。幼少の頃の彼女は、スキンシップが不慣れでいつも緊張のあまり硬直をしていた。しかし、それも 最初のうちで、今では恥らっていた頃が懐かしいほどだ。 フルンちゃん、また背が伸びたかの? 成長していく姿を見れるのはとても嬉しいが、同時に寂しくもあるの。 わしも、歳をとったもんじゃ。 「早いもんじゃの。初めて出逢った時は、まだ私の腰ぐらいの背丈じゃったのに。それで何処の高校に通うんだね?」 「桜花学園高等学校よ。凄く面白い学校だって噂があるの! 私の家からだと電車と自転車で三十分ぐらいの距離だよ」 「そうかい。フルンちゃん、花の高校生活を存分に楽しむんじゃぞ。若いことは素晴らしいことじゃ! どんどん経験なさ い」 「ありがとう、マイケル叔父さん。あっそうだ!」 マイケルが抱擁を解くと、フルンは思い出したように鞄の中から円柱の大きな貯金箱を取り出す。どうやら中身は満タン のようで、片手で持つには少々重そうだ。この中には、彼女が幼少の頃から貯めてきたお年玉やお小遣いが貯蓄されており、 大きな額が入っている。今現在、彼女の中で一、二位を争うほど最も大切なもので、これも全てクリスタリアにある貴重な 商品を購入する為にだ。 ついに、この日が来たのね! やっと、やっとだわ!! 彼女は、喜色満面の笑みを零しながら、マイケルに大事な貯金箱を差し出す。 「マイケル叔父さん! やっと目標額が貯まったの!! 長かったけど、お金が増えていくのが楽しかったわ!」 「そうかい。おめでとうフルンちゃん! ついに、この日が来たんじゃな。よかったの!」 彼女からもらった貯金箱を、マイケルはレジのカウンターの下に保管する。 「ありがとう! まだ、あれは置いてあるの?」 「もちろんだとも。フルンちゃんの為に、長年ずっと保管していたからのう。ほら下へ行くよ」 彼は、茶目っ気に片方の目でウインクをして彼女について来るように促し、いつものように地下室へ案内する。地下へ通 じる道は、店内の奥にある直階段を降りたその先にある。地下には表よりも高価な代物が保管されており、ほぼガラスケー スに入っている。中には暗証番号付きの鍵がかけられていて、厳重に保管されている品物もある。フルンがずっと欲しがっ ていた商品も鍵付の高価な物だった。 夢が叶うのは嬉しいけど、これでもうここの地下室に通うのも最後なのよね。 店内の奥にある直階段を、フルンとマイケルはゆっくりと降りて行く。ここは、フルンにとって思い出深い通路で、幼少 の頃から何度も昇り降りを繰り返してきた所だ。しかし、それも今日が最後だ。夢が叶ったからには、もうここを通る必要 性も無くなる。彼女は、悲哀な表情を浮かべて、小声で残念そうに呟く。 「もうここに通うことも、無くなっちゃうのかな……」 「そうじゃのう。でも、フルンちゃんが望むなら、私はいつでも大歓迎するよ。フルンちゃんは、よくここで遊んでいたか ら思い出深い場所じゃろう?」 マイケルの温かい言葉に、フルンはパッと顔を上げて喜色満面の笑みを浮かべる。まるで周囲に花が咲いたかのようだ。 そのせいか先程とは打って変わって彼女の声のトーンも、一段と明るくなる。 「……本当? また来てもいいの? マイケル叔父さんの迷惑になったりしない?」 「迷惑だなんてとんでもない! またいつでも遊びにおいで。フルンちゃんは、わしの孫のようなものじゃからな」 「嬉しいわ!! ありがとう!! マイケル叔父さん!」 階段を下りるとすぐに広い空間が現れる。どうやらここが地下室のようだ。部屋の明かりは階段よりも明るく、周囲には 最高級のロココ調の家具や石像や絵画が複数ある。中でも一際目を引くのが、アンティークゴールドの天使と人間が抱擁し ている像で、大人の背丈に匹敵する大きさだった。他にも豪華なジュエリーやシャンデリアがあり、どれも美麗で輝きを放 っている。それでもフルンには、とある商品しか見えていないようだ。他の商品には目もくれずに、目的の品物を求めて奥 へと進む。その先には、クリアなガラスケースが並べられており、その内の一つの前にフルンは立ち、惚れ惚れとした視線 を向ける。 やっぱり素敵!! 何度見ても飽きないのよね!! 本当に綺麗! 素敵過ぎる!! 彼女の隣にいたマイケルは、白い手袋を付けてズボンのポケットから鍵を取り出す。手馴れた手付きで鍵を開けると、ガ ラスケースの蓋が開き中身が露になる。フルンが幼少の頃から欲しがっていた商品が、久しぶりにガラスケースの中から取 り出された。 「うわー凄い! 綺麗! ガラス越しとはまた違うね!」 「そうじゃろう? わしも、この天使の鏡はお気に入りの一品じゃよ」 それは、高貴さが漂うロココ調のアンティークの鏡だった。白色の天使が四方に装飾されており、黄金の細かいレリーフ が太陽のように楕円形の周りを覆っている。表面を見ても、傷や色落ちしている部分は無く、大切に保管されてきた事が伺 える。フランスのベルサイユ宮殿にあっても、違和感なくその場にマッチする品物だ。今から数百年前、ヨーロッパ地方で 作製された品物だと、以前マイケルが彼女に詳説していた。マイケルは、久しぶりに取り出した天使の鏡を持ちながら、穏 やかな口調でとあることを彼女に伝える。興味津々なフルンは、彼の優しい目をした碧眼に視線を向けた。 「フルンちゃん。実は、この鏡には不思議な仕掛けがあるんじゃよ」 「えっ?! そうなの!? ……どんな仕掛けなの?」 「その答えを知りたければ、今夜月明かりにこの鏡を照らしてごらんなさい。素晴らしいモノが見られるよ」 マイケルは、破顔一笑して持っていた天使の鏡をフルンに手渡す。彼女は、落とさないように両手にしっかり抱えて慎 重に持つと、ずっしりとした重みがやってくる。初めて両腕で天使の鏡に触れると、フルンは嬉しさの余り愛おしそうに力 強く抱きしめていた。まるで小型犬のペットを両腕に抱き締めているかのようだ。 夢が叶ってよかったのう、フルンちゃん。 「……幼い君が、もう惚れ惚れとした眼でこの鏡を見ていたことがまるで昨日のことのようじゃ。初めてお母さんと一緒に 来ていた君は、たくさんある商品には目もくれず、唯一この鏡の前だけにはいつも座り込んでね。よく遊びに来てくれて、 もうフルンちゃんがいつもいるのが当たり前になってしまって。時が経つのは早いものじゃ。本当に、フルンちゃんは大き くなったのう」 「へへ。私ね、初めてこの鏡を見た時のことを覚えているよ。あまりに綺麗で、惚れ惚れして離したくなくて。絶対に家に 持って帰るんだって決めてた。だから貯金も頑張って、家でお手伝いもしてたの。アルバイトはまだ出来ないから」 「よく頑張ったのう。きっと今夜の仕掛けを見れば、その価値が十分にあったとそう思うじゃろう」 「じゃあ今夜、早速やってみるね。ちなみにマイケル叔父さんは、その仕掛けを見たことはあるの?」 「もちろんあるとも。とても美しく、神秘的なものじゃよ。あとは自分の目で確かめてごらんなさい」 フルンは、改めて天使の鏡を眺める。ストレートの栗色の髪にチョコレート色の茶眼の目、今は自分の顔しか映っていな い。装飾が美麗であることを除くとごく普通の鏡だ。とても何かの仕掛けが施されているとは思えないが、そのままでも十 分に魅力的な鏡だった。マイケルは、彼女の肩を抱いて更に言葉を続ける。 「今宵は幸いにも満月。仕掛けが発動するのは満月のみじゃよ。覚えておきなさい」 「仕掛けは、満月のみね。面白い情報ありがとう、マイケル叔父さん」 「どういたしましてフルンちゃん。さてと、表に上がろうかの。フルンちゃん、私が持とう」 「ううん。私が持ちたいの。ありがとう! マイケル叔父さん」 そのままマイケルとフルンは、地下室を出てアンティークの直階段を上ると表のレジへ向かう。彼女は、天使の鏡を落と さないように慎重にレジのカウンターへ置く。マイケルは鏡を受け取ると、割れないように厳重に包んでから丁寧に包装し て箱に入れた。最後に、フルンが天使の鏡が入っている荷物を受け取り彼にお礼を告げる。 「マイケル叔父さん、ありがとう! 天使の鏡、大切にするね!」 「きっと天使の鏡も喜ぶと思うよ。よければ宅配便で届けようかの?」 「ううん。自分の手で持って帰りたいの。だから今日は、自転車を置いてきたんだ。お気遣いありがとう!」 レジ越しに大きな掌で優しく頭を撫でられて、フルンは嬉しそうに微笑を浮かべる。彼もまたとても嬉しそうに微笑むと、 露草色の碧眼だけが少し寂しそうに陰りを見せる。やはり孫のように可愛がってきたフルンが、これで来る事が減るのかと 思うと寂しいのだろう。そんな様子にこれっぽちも気付いていない彼女は、いつものように明るい口調で別れを告げる。 「それじゃあマイケル叔父さん、また来るね!」 「またいつでもおいで。待っているよ」 マイケルの大きな手が離れてフルンは天使の鏡を抱えながら、そのまま出入り口のドアを開けて外へ出る。ドアの外から 彼女は小さく手を振ると、マイケルは穏やかな笑みを浮かべながら手を振り返した。 やったーーー!!! ついに、念願だった天使の鏡を購入する事が出来たわ!! 夢って叶うものね!! 自宅に戻って、夕飯とお風呂をサッサと済ませた彼女は、興奮気味に購入したての天使の鏡を箱から取り出す。 「やっと夢だった天使の鏡を購入する事が出来たわ!! 嬉しすぎるー!! それにしても本当に綺麗だわ」 興奮が冷めぬまま、次にフルンは天使の鏡を丁寧に両手でしっかりと抱える。何処に飾ろうか迷ったが、月明かりがよく 差し込む出窓の上に慎重に配置した。ちなみにこの部屋は、長方形のフローリングの洋室で広さは十四帖程ある。風通しも よく日当たり抜群の南側の部屋で、西側にはテラスもあり大の字で寝転んでも十分に余る広さがあった。 「どんな仕掛けが見られるのかな? 楽しみだわ!」 彼女は、期待に胸をワクワクさせながら、天使の鏡の隣で肘を付いて夜空を見上げる。暫くすると、雲の間から満月がひ ょっこりと顔を出して、フルンは慌てて天使の鏡を満月に映す。 その時だった。 鏡面から膨大な金色の光が溢れ出し、直視をするのが困難なほど、眩い光が部屋全体に広がる。 「……何?! 何なのこれ?!」 フルンは、何とか片目を開きながら吃驚した。一体何が起こっているのか理解に苦しみ、片腕で光を遮ぎながら天使の鏡 を凝視する。 これが、マイケル叔父さんが言っていた仕掛けなの?! 暫くして光が収まってゆくと、鏡面に変化が現れていた。さっきまでは小さな満月を映していたのだが、現在は、金色の 数字だけが鏡面内でゆらゆらと揺れながら整列している。数えてみると全部で十二個あり、フルンは小首を傾げた。 「……これって時計なの? 一体何処の外国の文字なんだろう?」 試しに鏡面に反映されている時計のような数字を、フルンはよくわからないままタッチパネルのように適当に触れてみる。 すると、フルンの意識が徐々に遠退いていき、仕舞いには鏡の中へ引っ張り込まれてしまった。