―序章―
第0話:過去
晴れ渡った青空に、七色の橋がかかっている。地上では、田園地帯が広がりそこかしこに緑が溢れていた。その間には、
点々と家が建てられており、程よい距離感がある。まるで、日本の田舎を彷彿させる風景だ。
その中の一軒に、広庭にギリシャ風の二階建ての家があった。一軒家にしては広大過ぎる土地で、東京ドーム二個分の敷
地はくだらないだろう。特に庭は、庭園と呼ぶに相応しく家よりも数倍広い。それでも、きちんと手入れは行き届いていた。
緑もふんだんだが他にも種類豊富な色取り取りの花々が咲き誇っており、春風に揺れて楽しげに体を揺らしていた。
家の中を覗いてみると、一階にある仕事部屋で、家主である彼が、大きな木製デスクの端にある高さ一メートルほどの書
類の山と格闘していた。何か重要な書類なのだろう。癖のあるショートヘアの金糸の髪をかいて、コーヒーを片手に書類に
サインをするべきか苦慮しているようだ。
「……どうしようか。あいつの面倒を見るとなると……」
セルリアンブルーの眼を閉じて、彼は考慮する。背中と椅子の間には、人間には無い純白の両翼を折りたたんでいた。体
には、ゆったりとした白色のガウンを身に包んでおり、まるで聖歌隊や古代ギリシャの衣装のようだ。腰には、コバルトブ
ルーのサッシュを装着して、足元にも同色のスリッパを履いている。傍に立てかけてあった剣も同様の色で、面識が無い人
物が彼を見れば、青色好きなのだと思われる風貌だ。
そこで、静寂に包まれた部屋の中に、光の矢の如く彼にテレパシーが届く。
――ハミュル。俺だ。
彼は、相手がわかるなり不愉快そうに、急に整った眉を顰めて左手に握っていた羽ペンを下ろす。あまり好ましく思って
いない人物のようだ。不機嫌そうに小さく溜息を吐く。やれやれと言った表情だ。
――ん? 返事が無いな? どうやら書類の山に囲まれて楽しく過ごしているようだな?
――何の用事だ? ウィラエル。
全く、厄介な相手からのテレパシーだな。また書類の山を引き渡すつもりじゃないだろうな?
――そうあからさまに嫌そうな顔をするな。今日は、書類を渡すつもりはないぞ。
――……要件は?
――つれないな。本当にお前は。無愛想と言うか、ぶっきらぼうと言うか…。
ウィラエルの小言を、ハミュルは右から左へ流す。甚くどうでもいいようで、次の書類に手を出してサインを再開してい
る。
――さてハミュル。お前は忘れているようだが、大図書館と例の書類を提出してくれ。今日が締め切りだぞ。オルトから、
既に受け取っているだろう?
ああ、その事だったのか。そう言えば、今日が締め切りだったな。
――今から、部下達に持っていかせます。
ハミュルは、今朝オルトから預かった書類を整えながら、ぶっきらぼうな態度で相手へテレパシーを送り返す。心の声や
思いを相手に届けようと意図すると通じているようだ。要は口に出さなくても、思いが伝達される。ハミュル達にとっては、
生まれつき備わっている伝達能力の一つだ。
――たまには、お前自身が持って来たらどうだ? 少しは、上司に顔を見せるべきだと思わないか? ウィラエル部隊上位
隊長ハミュル殿。
テレパシーを受け取った瞬間、ハミュルは、整った眉を更に寄せて眉間に皺を作り、心底嫌そうな表情で返事を返す。何
か気に障ったようだ。彼のオーラが、より赤く発せられる。怒りを感じているようだ。
――だったらウィラエル。俺が姿を見せる度に、揶揄をするのを止めてくれないか? それに、この書類は、一々俺が足を
運ぶまでもないだろう? 俺は、他にも仕事を抱えているんだ。何処かの優秀な上司様が、昨日大量に仕事を送りつけてこ
なければ顔を出したけどな?
――急用だったからな。まあ有能な俺の部下のハミュル上位隊長なら、こんなの朝飯舞だろう? 引き受けると言ったから
には、責任を持って最後までキッチリやって貰わないとな。期限に間に合わなさそうなら、少しだけなら伸ばしてやるぞ?
別の書類に目を通しながら、ハミュルは彼の上から目線の言動に長息を吐く。さっきよりも更に苛々しているようで、眉
間に更に深い皺が寄っていた。言いたい事が山ほどありそうだが、彼も大人だ。言って良いことと、悪いことの分別は出来
ているのだろう。
相変わらず嫌なものの言い方をするな。なーにが期限を延ばすだ。それにしても、この大量の書類を見る度に思うが、猫の
手も借りたいほどだ。部下に回せる仕事なら回しているが、それが出来ないのが辛いところだな。
机上以外にも、デスクの床の周辺には、山積みになっている四個の大きな書類のタワーが待ち構えていた。ざっと見たた
だけでも、千枚は軽く超えていそうだ。彼は、上司から与えられた書類を睨み付けるように眺めていると、小さく溜息を吐
く。
――それとハミュル。一つ誤解があるようだから訂正しておく。俺は、お前を揶揄しているつもりは無いぞ?
――……ウィラエル、俺を揶揄しているのは誤解では無く、紛れも無い事実であり真実だ。
――さて、ハミュル。ズベコベ言わずに、さっさと書類を持って来い。仕事を増やされたいのか? 悪いが、俺も暇じゃ無
い。
そう言って、ウィラエルが一方的にテレパシーを切る。
「あっ……、ちょっと待て!! まだ行くとは言ってないぞ!!」
はぁーと、ハミュルは深々と大きく溜息を吐き頭を抱える。上司の横暴さに、相当参っているようだ。
ウィラエルめ。この忙しい時に!! 上司だからと言って、こっちの都合も少しは配慮してくれ!! あの自己中大天使め
!! エネルギー弾の一発でも送ってやりたい!!
もう一度、盛大に溜息を吐きながら、ハミュルは肩を落としてよろよろと椅子から立ち上がる。背中にある純白の両翼も
いつもより下がり気味で、参っていることを示しているかのようだ。
そこでハミュルは、自分と瓜二つの存在を召喚すると、もう一人の彼が目を開けて嬉しそうに微笑みを浮かべた。何処か
らどう見てもハミュルそのものだが、決定的に違うのは左手にしてあるゴールドの腕輪だ。これは、本体のハミュルと分身
の彼を見分ける為のものである。
「悪いが、そっちの書類を持ってくれ」
「わかった。……本体、元気出せ」
自分自身であるがゆえに、分身が何を言いたいのかをハミュルは手に取るようにわかるようだ。その言葉の真意に、苦笑
を浮かべると書類の山を二人で分割しながら落とさないように持ち上げる。
「全く。上司だからと言って、職権乱用だと思わないか? この書類なら、わざわざ俺が出向く必要は無い」
「そうだな。本体の気持ちもわかるが、最近ウィラエルに会って無いのも事実だからな。きっと会いたいんじゃないのか?
俺も、ウィラエルは苦手だけど」
「他人を揶揄する癖を改めてくれたら、好意は持つだろうけどな。まあ仕事の面だけは、素直に尊敬しているぞ? 要領が
良くてテキパキしている上に、あの情報を掴んでくる速さは、誰も真似が出来ないからな。ジュナエルでさえ敵わない」
「そうだな。何だかんだ言いながら、確かに尊敬はしているからな」
自分と瓜二つの存在に視線を向けて、ハミュル達はお互いに苦笑を浮かべる。
「じゃあ行くぞ。本音を言うと、行きたくないが……」
「本体……」
そう言うと、ハミュルと彼の分身は、セルリアンブルーの眼を閉じて瞬時移動を実行する。すると、周りの風景が飛ぶよ
うに早変わりし、彼らが次に目を開けると、何処かの建物内に到着したようだ。目前には、アーチ状の大きな両開きのコバ
ルトブルーのドアがある。左右には、コバルトブルーのラインが入った白壁と、背後には、大人十人が横並び出来る大きな
下り階段があった。高い天井には豪華なシャンデリアがぶら下がっており、足元には、綺麗に磨かれた大理石の床が広がっ
ている。
「書類を渡したら、とっとと帰るからな。長居は無用だ」
「そうだな。仕事だって溜まっているからな」
――本音を言うと、ドアの前に書類を置いて今すぐに帰りたい気分だ。そうだ! ノックをして、瞬時移動してもいいよな?
一応、俺が、持ってきたことに違いは無い。
――本体……。
隣で苦笑を浮かべている分身に、ハミュルは大きな溜息を吐き「ウィラエルと顔を合わせると、いつもろくな事が無い」
と愚痴を言ながら渋々諦め、大きな扉を二度ノックする。少しして、室内から身長二メートルを超す大男が姿を現した。ク
ールな雰囲気を醸し出しており、ショートヘアの癖のある眩い金髪に、深いインディゴブルーの碧眼が魅力的だ。
彼は、ドアに凭れ腕を組むと、頭二つ分程背丈が違うハミュルの姿を見下ろし頭をかき撫でる。そのせいで元々癖毛のハ
ミュルの金糸の髪が、更にクシャクシャになった。彼は、部下が来てくれたのが嬉しいようで、口角を上げてにやりと満足
気な笑みを浮かべる。ここまで身長差があると、まるで大人と子供のようだ。
「随分と早い到着だな? そんなに俺に会いたかったのか? ウィラエル部隊上位隊長のハミュル殿。少しは身長が伸びた
ようだな?」
「ウィラエル……」
よりによって、本体が一番気にしていることを……。この上司は。
ハミュルの分身は、引き攣り笑いを浮かべて、本体である彼の怒りを収めようと肩を掴む。しかし、既にハミュルは、上
司である彼を、鋭利な目付きで睨み黙り込んでいた。不機嫌オーラ全開だ。口を開けば、これまでの鬱憤を捲くし立てそう
な勢いだ。
「ハミュル、そう怒るな。お茶の準備が出来ているから中に入れ。その書類は渡してもらおう」
ウィラエルの楽しそうな揶揄交じりの台詞に、ハミュルはピクンと片眉を吊り上げる。まだ怒りは収まっていないようだ。
上司を睨み付けたまま、怒声を含んだ音色で言い放つ。
「俺は、他にも仕事があるからとっとと帰るぞ。じゃあな! 大天使ウィラエル。邪魔した!」
ハミュルは、ぶっきらぼうに上司に書類を押し付けるなり、さっさと帰ろうと踵を返す。隣にいた分身は、困り果てた表
情を浮かべて、上司に謝罪して書類を渡すとハミュルの後を着いて行く。そこでちょっと待てとばかりに、ウィラエルはハ
ミュルの手首を掴み、楽しげに笑みを浮かべながら引き止める。
こいつは、なんでこう面白いか。真面目故に、真に受けて躱す事を知らないよな。何処かの誰かさんを彷彿させる。
「まあ、そう焦るな。それに、オルトに手渡して欲しい物もある。少し頼まれてくれ。あとお前にも渡す品物がある」
「……断ると言ったら?」
「今から大量に書類を送りつけて、上位隊長から上位副長に降格してやる。……職権乱用と言われてもな?」
「ウィラエル、聞いていたな? 部下の監視が仕事に入っているとは言え、悪趣味だ」
彼は、コバルトブルーのサッシュが巻き付けられている腰に手を当てて、苦笑を浮かべながら部下であるハミュルを見下
ろす。
「馬鹿を言え。仕事だ仕事。お前の私生活まで見ている暇は無い。さっさと中に入れ」
「……ウィラエル、俺の心を勝手に視ないでくれ。俺にも、プライバシーがあるんだぞ!」
「視たくて視ている訳じゃない。エネルギーがダダ漏れなだけだ。まあ、そもそもだ。背中にある剣のシールドは、上司で
ある俺の前では無力だからな。諦めろ」
あまりにも図星過ぎて、ハミュルは面白くなさそうに据わった眼で相手を睨み付ける。けれど、ウィラエルは何処拭く風
で、にやにやと楽しそうに笑っており、それにつられて背中にある大きな純白の翼も少し揺れていた。
「本当にお前は、俺の前では素直じゃないな。そんな態度だと、預かっている品物を渡さないぞ?」
「その品物ってなんだ? 一体、誰からだ?」
ハミュルの問いに、ウィラエルはニヤリと唇を緩めて意地悪く笑みを浮かべるだけで何も答えなかった。彼らは、嫌な予
感がして、肩から盛大に溜息を吐き渋々ウィラエルの執務室に入る。これまでの経験上、どうやらハミュルは、ろくでも無
いものだと判断しているようだ。
「そこに座ってろ」
ウィラエルに言われた通り、部屋の奥にある白色のゆったりとしたソファーにハミュル達は腰掛けた。傍には大窓があ
り、ソファー同士の間にはローテーブルがある。部屋は、白と青で統一されており、広さは二十帖余りの長方形のようだ。
入り口のドアの正面には大きな机があり、その背後には、本棚が所狭しと並べてあった。付近には、書類の山が複数キッチ
リと綺麗に並べてあり、几帳面な部分が窺える。ウィラエルは、机上に置いていた本を手に持ち、彼らの前に対座した。
「これがオルトに手渡して欲しい本だ。いつ返してくれても構わないと伝えてくれ」
「……わかった。渡しておく」
彼は、上司から分厚い茶色の本を受け取り、承諾の意味で頷くとガウンの袂に入れた。次にウィラエルは袂の中を弄ると、
ピンクのハート型の鍵が中央に大きく描かれた本をハミュルに手渡す。サイズは、文芸書とほぼ同じ大きさで表紙は真っ白
だ。ハミュルは、怪訝な表情を浮かべながら首を傾げた。
「それから、これがお前宛の本だ。恐らく中身は、お前しか読むことが出来ない。何か特殊な鍵が掛かっているようだ。ク
レシオンから預かったが、何か心当たりは無いか?」
「……見た事が無いな。それに何故、クレシオンが関係している? 訳がわからない」
「それは俺が聞きたい。ただ、理由あり物であることは確かなようだ。その中に、一体何が書かれてあるのか? 俺自身が
一番知りたい所だぞ。流石に、お前の本である以上それは出来無いが」
少々悔しそうに、ウィラエルはハミュルが手に持っている白い本に視線を向ける。ハミュルの分身も怪訝そうに首を傾げ
て、興味深々に本を眺めていた。ハミュルは背表紙や裏表紙を見ながら、にやりと笑みを浮かべてウィラエルに皮肉的な冗
談を告げる。
「何でもお見通しのウィラエルでも、視えないものがあるのか。それほど珍しい本なんだな?」
「馬鹿を言え。俺だって完璧じゃない。大天使だからと言って、何でもかんでもホイホイわかるか。ただお前達よりも、視
る事が長けているだけだ」
さも当たり前のように、ウィラエルは怒声交じりに告げると苦笑を浮かべる。その様子を見て、ハミュルは、再度ニヤリ
と笑みを浮かべた。
売り言葉に買い言葉。上司と部下でありながらも、ここまで皮肉的な冗談が言い合えるのは仲がいい証拠だろう。彼の分
身は、ハミュルが手に持っていた本を凝視しながら、疑問を口にする。
「それにしても。これは、一体何の本なんだろうな? タイトルも無ければ、著者が不明な点も引っかかる。それに鍵付き
な部分もだ。謎だらけだな」
「少なくても、お前に危害を加える本では無いだろう。そんな危険は感じは、その本からは感じないからな。仮にも危険な
物なら、誰が可愛い部下に手渡すか」
堂々と告げる上司の台詞に、ハミュルは引き攣った笑みを浮かべながら、片方の眉根を下げた。心底、信じられないとで
も言いたげな表情だ。
「気のせいか? かっ……可愛い部下と聞こえたが?」
「当たり前だろう? お前は一体、俺のことを何だと思っている?」
「鬼……いや、じょ……上司だ」
幻聴じゃなかったのか。
「ハミュル、鬼と言ったことは特別に聞かなかったことにするが、次に言ったらそこの書類を全部お前にまわすからな?」
ウィラエルは、満面の笑みを浮かべながらハミュルに視線を向ける。パッと見て顔は笑っているが、インディゴブルーの
目は笑っていなかった。ハミュルの分身は、青褪めながら本体である彼に軽く肘で小突く。火に油を注ぐような真似はする
なとばかりに。これ以上仕事が増えることを思うと、ゾッとしたのだろう。ウィラエルは、そのまま話し続ける。
「しかし、今まで散々色んな本を見てきたが、こんなにおかしな本を俺は見たことが無い。タイトルが無ければ、この何十
ものロック。挙げ句の果てには、著者さえ不明。一体、何処の誰が何の目的で作ったのか? 是非知りたい」
「そんなレベルの本なのか? 鍵付の本は、俺も見たことはあるが、ここまで頑丈にロックをしているのは確かに俺も初め
てみた。オルトが見たら、興味を持ちそうだ。鍵を開けようと必死になりそうだな」
「彼奴なら、やりかねないな。オルトは、好奇心旺盛だ。試しに見せて見るのも良いかもしれない」
ハミュルは、鍵付きの白い本へ再び視線を向けると、ガウンの袂へと仕舞う。それから、なんだかんだと久しぶりに会っ
たこともあり、上司の話に付き合わされて、一時間程してからハミュル達は疲れた表情でウィラエルの部屋を後にした。
それが全ての始まりとも知らずに。